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這個那個


我的中国日記

一、天壇公園

二、頤和園

ぶろぐ



我的筆記
【関羽的人物形象】
 あなたが中国の大学の学生だとします。明日は期末テストです。“三国演義”が試験に出ると先生は言っていましたが、いままで遊んでいたので一夜漬けをするしかなくなってしまいました・・・さてあなたは何から手を付けたらよいのでしょうか? 古典の試験はその多くが作品の“芸術成就(芸術的完成度)”、“情節(話の筋)”、 “人物形象(人物像)”を問うものです。三国演義の場合は小説ですから“人物形象” が狙われる確率が高いでしょう。先生が問題を少し難しくしようと思ったら、“情節”と “人物形象”とを絡めた問題になるかもしれません。 とは言え、三国演義に登場する人物は何百人もいます。一体誰に重点を置いたら良いのでしょうか?
 
 ズバリお答えいたします。超重点は曹操・関羽、重点は劉備・諸葛亮です。少な くとも、これらの人物を外して他の人物を問う問題が出ることはありません。それで、曹操について出題された場合のキーワードは“狡猾”、関羽については “忠義”で、この単語(若しくはそれに類する語)があるかないかでは点数が大 きく違ってきます。また諸葛亮は、その卓越した能力について論述をした後に 「しかし、その多くは迷信的」と書くのがちょっとしたコツで、この辺りは共産主義国中国らしい所と申せましょう。

 ところでこの関羽なのですが、果たして忠義の士と言えるのでしょうか?ご存知 の様に、関羽は曹操を逃がし、諸葛亮があれほど固執した荊州を失ってしまいま した。荊州と言えば蜀が魏を攻めるにしても魏から守るにしても、極めて重要な場所で、荊州を失ってからの諸葛亮には祁山廻りという、文字どおり困難な道しか残されなかったのです。 更に言うなら、関羽の愛読書は“春秋左氏傳(略称’左傳’)”となっておりますが、この“左傳”の主な内容は国と国との戦争なのであります。言わば戦術兵法書とも言える性格のもので、これを座右の銘としていた関羽は“左傳”の一体どこを読んでいたのでしょう?
 
「宋襄の仁」という言葉もありますが、一人の男としては素敵な関羽も、一国の将軍としては如何なものだったのでしょうか?
【鴻門之会】
 “鴻門之会”は司馬遷の「史記・項羽本紀」の中の一節で、秦の都・咸陽を占 領した劉邦が項羽の基地鴻門を訪れた時、宴の席で項羽が剣舞のさなかに隙を 見て劉邦を殺害しようとする故事です。

この“鴻門之会”の出だし、項羽と劉邦が席に就くシーンはこう書かれています。 “項王、項伯東向坐,亜父南向坐。亜父者,範増也。沛公北向坐,張良西向侍。” この文章によると、項王、項伯は東向に、範増は南向きに、劉邦は北向きに、 張良は西向きに座った事になります。 これはただ席の位置を書いているだけではあるのですが、少し探ってみると面白 い事が分かります。

 と言うのは、当時屋内で席に就く時は東向きが一番良い席 (上座)、南向きが2番目、北向きが3番目、西向きが4番目(下座)となって おり、この記述通りだと、項羽と項伯が一番良い席に就き、劉邦には三番目の席 を与えたことになります。  
 項羽の傲慢な態度がここからうかがえます。
【学而時習之(シュエ・アル・シ・シィ・ジ)】
日本語に訳すと「学びて時にこれを習う」、論語の中の言葉です。この後に「亦た説ばしからずや。朋あり、遠方より来る、亦た楽しからずや。」と続きます。有名な言葉ではありますが、「学」と「習」の意味を正確に理解しないと、何だか分かったようで分からない言葉になってしまいます。「学」とは“従無知到有知”、即ち「無知な状態から知識の有る状態へ変化すること」で、「習」は「学んだことを反復練習(復習)する」と言う意味なのです。

「習い事」は繰り返しの練習が肝心なようで?
【古代中国人の“字”について】
字とは、例えば“諸葛亮孔明”の“孔明”のことです。普通“名”と“字”とは何らかの意味上の関係(同義、反意など)があります。つまり、“諸葛亮孔明”の場合であれば、“亮”と“明”が同義語です(ちなみに“孔”は「とても」の意味です)。また、“字”は普通身分の下の者が上の者を呼ぶ時に使われます。逆に言えば、上の者が下を呼ぶ時、若しくは自称する場合は“名”を使います。「出師表」の書き出しは“臣亮言・・・”でした。

こういう所に注意して読むと「三国演義」がまた楽しくなるかも?

※実際には“字”と“名”の関係はもっと複雑です。でも、“趙雲子龍”の“雲”と“龍”とか、“周瑜公瑾”の“瑜”と“瑾”(どちらも“美しい玉”の意・・・周瑜は名前も奇麗です)など、いろんな新しい発見もあります。
【走馬灯】
実は、日本の小学生は中国の大学レベルの知識を持っているかも・・・?!

“走”は、日本だと小学校くらいで習う漢字ではないでしょうか?でもこの字、中国ではある意味で大学レベルの漢字なのです。

実はこの字、中国の大学の古代漢語の授業での重要単語です。では、どうして漢字の国中国で、大学になって習う程難しい単語なのでしょうか?

問題はこの中の“走”の字です。この字はもともと“走る”と言う意味だったのですが、その後意味が変化して、現在の中国では“歩く”と言う意味になってしまっています。日本語の方が昔の意味を残していることもあるんですね。
【洛陽と山陽】
“洛陽”と言う地名は“洛河(川の名前)”の“洛”と“陰陽”の“陽”とから成ります(この「川(山)の名+(陰)陽」という地名は中国では意外と多いので、興味のある方は調べてみて下さい)。

これと似たようなパターンの地名は日本にもありますね。タイトルの「山陽」がそれです。ところでこの“陰”とか“陽”とかは一体何を示すのでしょうか?「“陰”は“日陰”の“陰”だし、“陽”は“太陽”の“陽”だ。また“山陽地方”が中国山地の南ということを考えると、“陽”とは南の方角を指すのではないか?」そう思った方、なかなか鋭いですがあと一歩です。“洛陽”は洛河の北に位置しているのです。

同じ“陽”がつくのに、南にあったり北にあったり。これは一体どういうことなでしょう?

もう気付いた方もいらっしゃるかと思いますが、更に分かりやすくする為に図を書いてみましょう。

(南)▲_▲(北)

少々極端ですが、この図は洛陽付近を南北に切った図です。この図の中心が洛河で、左右の▲は川の土手だと思って下さい。すると洛陽は向かって右の土手の内側の斜面に位置することになります。

この地形で太陽の光が南から射してきたら・・・洛陽が日の当たる側になることがお分かり頂けると思います。つまり“陽”とは単純に“日の当たる場所”を示すと考えればよいのです。“山陽”についてはもう説明不要でしょう。時間のある方は、日本の“山陰”や中国の“江陰”と言う地名について考えてみて下さい。

(上記の事を一言で表すと“山之南水之北為陽,山之北水之南為陰”となります。
余裕のある方は覚えて話のタネにでもして下さい。)
【曹操と華陀】
突然ですが、お伺いします。もし皆さんの頭に腫瘍ができて、医者に脳外科手術が必要だと言われたらどうしますか?

「脳外科手術とは大変だ。でも命にはかえられないから仕方がない。」多くの人はそう考えるのではないでしょうか?

それではもう一つお伺いします。もし皆さんが今から1800年前の時代に住んでいたとしましょう。その時医者に「斧で頭をかち割って悪い所を取り出そう。」と言われたらどうしますか?

今回はそう言った所から話が始まります。今から約1800年前の三国時代(注1)、頭痛に悩まされた曹操は華音欠(注2)の進言により、当時“神医”と謳われていた華陀を金城から呼び寄せ治療に当たらせようとしました。その時華陀は曹操を診察してこう言います。

「某有一法。先飲麻肺湯,然後用利斧石欠開脳袋,取出風涎・・・。」(注3)

これを聞いた曹操、怒りに怒って(原文:操大怒曰)華陀に問います。

「汝要殺孤耶?」(注4)

華陀は(言わなきゃいいのに)関羽を引き合いに出して答えます。

「大王曽聞関公中毒箭,傷其右臂,某刮骨療毒,関公略無懼色。今大王小可之疾、何多疑焉?」(注5)

・・・その後華陀は牢に入れられて獄死するのですが、その話を別にすれば私は曹操の気持ちが何となく分かるような気がします。だって1800年前に脳外科手術ですからねえ・・・手術しない方が長生きしそうです。

あとは華陀について考えてみても面白いかもしれません。少なくとも、当時の曹操位の身分の人の診察をするのは命懸けであった筈で、それから考えると自信のあり過ぎというか、勇気のあり過ぎというか・・・。


(注1)中国の歴史教科書では公元(西暦)190年〜280年までを三国時代
    としている。
(注2)“音欠”は一つの漢字。
(注3)“麻肺湯”は「(当時の)麻酔薬」
    “利”は「鋭い、鋭利な」
    “石欠”は一つの漢字で「(刀や斧で)切る、割る」
    “脳袋”は「頭」
    “風涎”は「病巣」。“風”は当時考えられていた病気の原因の一つ。
    全文では「一つ方法があります。先に麻酔薬を飲み、その後斧で頭を割
    って病巣を取り出すのです・・・。」の意。
(注4)“孤”は諸侯が使う謙称。意味は「私」
    全文では「お前は私を殺すつもりか?」
(注5)“曽”は「かつて」
    “中”は「当たる」
    “刮”は「(こすり)削る」
    “略無”は「少しも(〜でない)」
    全文では「大王(曹操)も、関公(関羽)が毒矢に当たり右腕を怪我し
    たことはご存知でしょう。関公は私が骨を削って治療しても顔色一つ変
    えませんでした。大王の病気は(それと比べると)そんなに大した事は
    ないのに、何故そんなに疑うのですか?」
【亀の甲羅が硬くなかったら“日”本ではなかった?】
1899年に王懿栄と言う人が甲骨文字を発見しました。1899年当時甲骨は“龍骨”と呼ばれ、何と!薬として服用されていたため、それ以前に失われた甲骨文の資料の数は計り知れません。

ところで、中国人の中にも甲骨文字が漢字の起源であるかのように思っている人がいるようですが、実際の所甲骨文字は商の時代(紀元前16世紀〜前11世紀)を代表する字体の一つに過ぎず、現在考えられている漢字の出現年代(紀元前約二千年)から考えて、ある程度成熟した文字であると言えることが出来ます。

前置きが長くなってしまいましたが、太陽を表す“日”が四角くなったのは実はこの甲骨文字と深い関係があるのです。

“日”はもともと“◎”(本当は真ん中の丸は黒い点です)と書き、太陽の形を表していました。ところが、商の時代に甲骨文字として硬い亀の甲羅や動物の骨に文字を刻むようになると、曲線からなる文字は非常に刻みにくいことが分かってきます。困った当時の人が考え出した(と言うか手を抜いた)のが現在の直線からなる“日”なのです。

亀の甲羅が硬くなかったら、“日本”はひょっとして“◎本”だったかも知れません?!
【擇“良日”】
何曰:“王素慢,無礼,今拝大将,如呼小児耳,此乃信所以去也。王必欲拝之,擇良日・・・。”《史記・淮陰侯列伝》

(注釈)
何:蕭何。劉邦の丞相。
素:日頃(から)。
慢:傲慢。
拝:任命する。
耳:肯定の意味を表す語気助詞。
信:韓信。秦漢時代の名将。
去:離れる。
王:漢王=劉邦。
必:もし〜。

いつまでたっても劉邦に採用されない韓信は、とうとう劉邦のもとを去ってしまいました。これを知った蕭何は、何とか韓信を連れ戻す為に劉邦に進言します。「貴方は平素から傲慢で無礼です。今、大将を任命しようとするのに、まるで子供を呼ぶようにしていますが、これこそ韓信があなたのもとを去った原因なのです。もし彼を任命しようと思うのならば、いい日を選んで・・・。」

今回はこの文に出てくる“いい日”について。

古代中国では十日を一単位(一旬)としていました。この一旬が三回繰り返されると一ヶ月となる訳です(陰暦の一ヶ月)。一旬は“甲乙丙丁戊己庚辛壬癸”で表され、具体的に言うと、1日は甲、2日は乙、3日は丙・・・10日が癸で、11日はまた甲となるのです。

ところで、この“甲乙丙丁戊己庚辛壬癸”には陰陽があります。陽とは奇数日の“甲丙戊庚壬”で“剛日”と言い、陰は偶数日の“乙丁己辛癸”で“柔日”と言いました。

さて、ここで上記の“いい日”に話は戻る訳ですが、《礼記・曲礼上》に拠ると、“外事用剛日,内事用柔日。”となっています。

ここで言う“外事”とは“指用兵之事”であり、“内事”とは“指宗廟之祭”のことです。

つまり、史記のこの部分の記述が用兵(大将の任命)に関することであることを考えると、選ばれた“いい日”とは“剛日”であることが分かります。

では具体的に何日であったのか?そう疑問に思う方もいらっしゃると思いますが、これはどこかに記載が無い限り分からないのです。

余談ですが、“吉日”とはこう言った“礼”に関する知識のない庶民が作った言葉なのです(これを使えば“いい日”と“悪い日”を間違っても分かりませんから・・・)。